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2008.01.19

月に一度、


仏教の講義を受けています。

昨日の講義で印象的だったのは、
仏教の核心は、経験と言語の「あいだ」にある、
ということ。

もし、誰にも伝えられず、
体験した本人だけのものとして経験があるのなら、
そこに「意味」が生じることはない。
経験は言語化され、他者に伝えられ、
その他者によって了解されてはじめて、
共有的な「意味」として、この世に生み落とされるのだ、と。

(ブッダは菩提樹の下で瞑想を続け、
 その結果、覚ったとされていますが、
 覚ったその瞬間は、まだ「ブッダ(覚者)」ではなかった。
 自分がした体験を意味付け、かつて共に修行した者達に説き、
 その中のひとりが、同じく「覚った!」と言った瞬間に、
 ブッダは「ブッダという意味」として生み落とされた。)

であるならば、
経験がどの様にして言語化され(意味付けられ)るか、
という、この経験ー言語の「あいだ」こそが重要であり、
仏教の教えは、そこに効いてくる。

ということかな?


やや僕自身の解釈も入っているので
イマイチ信用ならないのですが・・・(笑)
面白かったので、とりあえずメモ。

この記事へのコメント
hitter鶴さん、

うまいこと絡めて下さって、ありがとうございます。
まさに、そういう事だと思います。
ブッダに成るのではなく、ブッダにまつり上げられる(?)
自己の根拠を、他者との関係の中に見出すという、
仏教の思想そのものでもありますね。

僕の場合、「覚り」までいかなくても、
小さな「気付き」の様なものはよくあります。
わりと、ちょくちょくあったりするのです。
でも、それを現実に活かしきることができない。

最近、文章を書けなくなってきているのもそこです。
ココに書くと、「書けた」ということ自体で満足して、
それで終わってしまったり・・・(笑)


昨日は、応挙の「雪松図」を見てきました。
Posted by ichiro at 2008.01.22 00:22 | 編集
「覚る」こと自体そんなに難しいことでは無いのかもしれませんね。
ポイすていけない、とさっとたお父さんが、自分の子供にいけないよと教え、人の見ていないところでも絶対捨てず、子供がポイ捨てしない子供になったときこのお父さんはブッタになるんじゃないでしょうか。
・・・・ちょっと上の話と絡めてみました。
Posted by hitter鶴 at 2008.01.21 21:44 | 編集
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